舞鶴引揚記念館
2008年1月11日訪問
京都から特急に乗ればおよそ1時間45分で東舞鶴の駅に着く。
駅前から路線バスで15分、市街地を離れた、舞鶴湾を見下ろす丘が引揚記念公園として整備され、その公園内に舞鶴引揚記念館がある。
敗戦時に外地にいた人は、陸・海軍約380万人、民間約340万人とされている。
その人たちの帰国が「引き揚げ」である。
南方からの復員が比較的スムーズに進んだのに対し、ソ連軍によりシベリアに抑留された人々は帰還までの苦労が甚大であった。
軍港であった舞鶴は、引き揚げ港10港のうちのひとつとして、大陸からの引き揚げ船を受け入れた。
1950年以降は舞鶴は唯一の引き揚げ港となり、「引き揚げのまち・舞鶴」として全国に知られるようになる。
最後の引き揚げ船は、1958年の9月だった。
舞鶴はまた、1954年と72年の二度大流行した歌謡曲「岸壁の母」によっても広く知られている。
舞鶴市が引揚記念公園を整備したのが70年、記念館の開館が88年である。
常設展示1は昭和改元以来の年表から始まる。
「激動の歴史」の中に引き揚げを位置づけているのがわかる。
集団収容や抑留生活を物語るおびただしい実物の数々は、忘れ得ぬ体験を持つ人の数多さを実感させる。
再現模型やジオラマもあり、引き揚げまでの悲惨な生活がよく分かる。
常設展示2は引き揚げ者を迎えた舞鶴の歴史を語る。
「戦争とは死と別れである」という体験者の言葉があるが、この展示は再会の喜びと、その裏にある「別れ」の悲哀を如実に想像させる展示である。
常設展示3は引き揚げに功績のあった人々や体験を持つ著名人のコーナーである。
引き揚げ漫画家の作品も展示されている。
またシベリアやサハリンへの墓参の展示もある。
記念館図録によると「平和の尊さ・平和の祈り」のメッセージを全世界に発信するというのがこの記念館のねらいであるようだ。
実物、写真など資料が豊富で、「岸壁の母」「異国の丘」といったよく知られたテーマソングもあり、館の周囲も美しく整備された記念公園になっている。
公園内にはさまざまなモニュメントがあり、丘の上の広場にいたる歩道には、桜並木の中に数々の記念植樹の標柱が立つ。
展望台からは、再現されたかつての引き揚げ桟橋が見下ろせる。
「引き揚げ」という、戦争の悲劇の一側面を実によく学べる平和ミュージアムであるといえる。
ただ、あえて言えば、歴史を相対的に見る視点は不足しているのではないだろうか。
戦争と引き揚げによって辛苦を味わったという立場からだけしかふりかえらなければ、それは容易にノスタルジーになってしまいはしないか。
「激動の歴史」の展示に、当時の新聞の再現がある。
当時の見出しだから相手国を見下す表現が躍っている。
それについては何の説明もない。
また、大陸で日本は何をしたのかを反省する展示はない。
例えば、こんな説明である。(図録より)
「金融恐慌が始まり、産業界の操業短縮、凶作による農村部の疲弊、さらには中国での反日の運動も重なって不幸な戦争への道へと進んで行きました」
これでは、中国が反日運動をしなければ戦争にならなかったのにと言わんばかりではないか。
中国の民衆が反日運動をしたのはなぜか考える必要がありはしないか。
引き揚げや抑留で悲惨な思いをした人にそんな反省を求めるのは酷かもしれない。
しかし、植民地朝鮮で生まれ育った自分をふりかえって、自分たちがそこにいたこと自体が加害なのだととらえる澤地久枝のような考え方もある。
自分の「満州国」での恵まれた生活が、もともとそこに住んでいた人々の不幸の上に築かれたものであることを痛切に悔やみ、当時それに目をふさがせた教育の姿を生涯の研究テーマにしている吉岡数子のような人もいる。
少なくとも、「引き揚げの歴史」を後生に語り継ぐなら、「引き揚げるまで」も伝えなければならないのではないか。
それにより、戦争を一つの視点だけでなく複数の視点で見て、相対化して考えることになり、より有効な平和のメッセージになるであろう。
舞鶴には、もうひとつ「引き揚げ」に関わるモニュメントがある。
それは、終戦直後、日本から朝鮮へ引き揚げる人々を満載した船が舞鶴湾内で爆発・沈没した「浮島丸事件」の碑である。
沈没海域に面した小さな公園に浮島丸殉難碑は立っている。
500名以上の犠牲者を出した事件である。
異郷で苦労した人々が母国に還るのが引き揚げであり、それから普遍的な平和への願いを学ぶのであれば、浮島丸事件も重要な事件ではないか。
しかも、その場所は引揚記念公園から見下ろせるところである。
だが、記念館にも公園内にも、浮島丸に言及するものは一切ない。
公園入り口の巨大な観光マップに場所が記されるのみである。
舞鶴は海軍の鎮守府が置かれた軍港都市であり、そのころの施設を観光資源として活用している。 みやげものとしての海軍カレーがあり、肉じゃが発祥の地をうたい、まちの通りには「三笠通り」などと旧連合艦隊の軍艦名が冠せられている。
こう見ると、日本人の引き揚げには感涙を注ぎ、美しい公園と立派な記念館を建てて語り継ごう、学ぼうとしている事実と、バスも通わない海岸にぽつりと立つ浮島丸殉難碑の現実とのちがいは、舞鶴市の姿勢の表れなのかもしれない。
しかし、それはひとり舞鶴のみにとどまらず、いまの日本社会全体で取り組むべき問題なのではないだろうか。